■日記
■庭日記
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検査停止がこのままいけば、来春には、日本中の原発が停止になると喜んだけれど、
ストレステストだなんだと言い始めて、
それをやるのがもし、今の原発安全委員会なら、公平性は期待薄。
第一言い出したのが、菅さんなので、政権が交代した途端に、
ストレステストも、脱原発も、うやむやになる懸念あり。
原発は、造りや立地場所が安全か否かの前に、燃焼の後に出る灰(核分裂生成物)、
これが一番大きな問題なのだと思うのです。
なんでも、広島に落とされた原爆の死の灰は800gだったそうですが、
原発一基から出る死の灰は年間1トンだそうです。
50数基の原発がすべて動けば、年間50トン以上・・・
それが動いている間ずっとですよ。
中和もできず、埋めるしかない死の灰。
これが北海道の幌延に来るのです。
遠いから、過疎だからと許せますか?
容器に入れて地中深く、それでどのくらいの期間、もれずにいるでしょうか?
誰にもわかりません。
容器の耐用年数は、2,500年とか言われていますが、実験したわけではない、理論値です。
ドイツもイタリアも原発を捨てました。
なぜ日本では出来ないのか。
経済も大事ですが、未来に負の遺産を残していいのでしょうか。
そもそも、どうしたきっかけで、原発が国策事業になったのか。
私も少し前まで知りませんでした。
ビキニ環礁での、アメリカの水爆実験で被爆した、第5福龍丸の事件を覚えていますか?
その乗組員で唯一の生存者の大石又七さんと大江健三郎さんの会談を先日テレビでみました。
私たちが最後の被爆犠牲者になるようにという、福龍丸の船長の言葉を
のちに何かで見た記憶がありますが、その後のことは知らずにいました。
この事件があったのは、終戦の10年後のこと。今から半世紀近く前のことです。
当時のアメリカ大統領のアイゼンハワーは、核の平和利用を国連で訴え、
大きな支持を得ていました。
その利用モデルとして、資源の少ない技術国の日本を選んだのですね。
(これに乗ったのが、正力松太郎と中曽根康弘だったようです)
その陰でアメリカは、ソ連に対抗して公海上で秘密裏に水爆実験をやっていたのです。
それが折悪しく通りかかった第5福龍丸を被爆させることに。
その時浴びた死の灰は、推定3,000〜5,000ミリシーベルト、致死量の半分量とのこと。
1年半後には、23人の乗組員全員が退院したそうです。
しかし、それは見せかけの退院。
実際は、半年後に機関長の久保山愛吉さんが亡くなり、
その後、ほぼ全員が白血病や、様々な癌で亡くなっているそうです。
ただ一人生き残った大石さんも、肝臓がんで何度も手術をされているそうです。
核を持ち続けるために、「平和利用」にすり替えたアメリカにとって、
この被爆は都合の悪い事故でした。
被爆の10ケ月後には、賠償金の200万ドルが支払われて、政治決着させたのです。
そして、2年後には東海村の原発計画が始まり、5年後には臨界へと進み、
日本は、原発大国への道を歩き始めた。
原子力発電事業は、単に「国策」としてだけではなく、東西冷戦時代のアメリカの
世界戦略の一貫として、自国の核を補うものとして存在したのですね。
こういう事情を知ると、なぜ原発の危険性が隠ぺいされ、
多額のお金が動く事業として存在するようになったかがわかるような気がします。
今はもう東西冷戦時代ではないけれど、隣に何をやらかすかわからない大国がいるし
原発をあちこちに作るよりは、そのものずばり核を持った方がいい、
なんて声が出て来ないとも限らず。
とにもかくにも、まずはやめましょう原発。
たしかに過渡期は、大変かもしれません。
しかし、為替の急激な変化も吸収して発展してきた日本ですもの。
化石燃料を使わなくても安全で効率の良いものを必ず作るでしょう。
私はそう信じています。