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- Joyful Note -
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悲しみを増すのは、自分の中に、何がしかの悔いが残っている時ですよね。
愛している家族ですもの。
後悔のない死なんてないですよ。
どんなに手を尽くしても、残った人には、必ずいくばくかの悔いが残ります。
お葬式も、そのあとのセレモニー、初七日、49日など、
全て残った人の癒しのために、あるような気がします。
亡くなった人は、痛みも苦しみもない天国に行ったのですから、
死は、悲しいことではないのですよ。
それでも、昨日まで顔をみて、手を触って声を聞けた人がいなくなったことに慣れるのには
長い時間がかかります。
年取った親の場合は、順番だからとあきらめもつきますが、
一番辛いのは、配偶者や子供や、ペットの死ですね。
これはもう、時間の経過に委ねて、少しずつ少しずつ、薄皮をはぐように、痛みをとっていく、
それしかないんですよね。
抹香くさいですが、ふと思い浮かんだ聖書の言葉を締めくくりに。
私の恵みはあなたに対して十分である。
私の力は弱いところに完全にあらわれる。
それゆえ、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。
(コリント人への第二の手紙 12章9-10節)